世界の都市人口ランキングBEST100(行政単位別)

2022年度の最新の世界の都市人口ランキングです。


都市圏(市街地の広がり)別ではなく、自治体単位のランキングです。

中国、インドのアジアや、アフリカの都市の人口増加が目立っています。

*2022年度のランキングに更新しました(2022年1月4日)。


1位 上海 (中国) 2791万人

*アジア最大

上海

中国の直轄市であり同国最大・世界最大の人口を誇る都市。モンゴル帝国時代に市舶提挙司(海上貿易管理処)が置かれ港町として発展し始め、アヘン戦争を終結させた1842年の南京条約により条約港として開港。1920年代から1930年代にかけて中国最大の都市として発展し、「魔都」あるいは「東洋のパリ」とも呼ばれた。中国の共産化後外国資本は香港に逃げたが、1978年の改革開放政策により、再び外国資本が流入して目覚ましい発展を遂げている。


2位 北京 (中国) 2096万人

中国・華北中央に位置する同国の首都であり直轄市。春秋戦国時代には「薊(けい)」と称し燕の首都となるが、歴史的には常に北方の匈奴などの遊牧民族の侵入による被害を受ける辺境であった。秦漢時代に「北平」、その後「南京」、「中都」などと称され、モンゴル帝国時代に「大都」として中心地となった。明代には南京に首都が移され、当地は再び北平と呼ばれたが、15世紀、北平を拠点とする永楽帝が政権を握ると遷都され「北京」と称された。第二次大戦後一時北平の名に戻るも、共産中国成立後、再び北京と改称され現在に至る。台湾政府は現在も北京という名前を認めておらず、公式名称として北平の名を使う。


3位 ムンバイ (インド) 1839万人

インドの西海岸に面する都市。天然の良港であり、国全体の海上貨物の半数以上を担う港湾都市である。都市の歴史は古く紀元前までさかのぼり、1534年にグジャラート・スルターン朝からこの地域を譲り受けたポルトガルが城塞を築き、ポルトガル語で「良港」を意味する「ボンベイ」と呼んだ。1661年にイギリスに委譲。東インド会社の中心港として発展を遂げ、海軍の拠点ともなった。二度の世界大戦後はコルカタを抜き、インド最大の都市となる。1995年、英語での公式名称がボンベイから現地語(マラーティー語)での名称にもとづく「ムンバイ」へと変更された。


4位 重慶 (中国) 1646万人

中国の直轄市の一つ。市内人口は1646万人だが、下部の4県級市、18県、4自治県を含めた重慶直轄市(日本でいうところの都道府県レベル)全体の常住人口は3205万人に上る。長江上流の四川盆地東部に位置し、中国に4つある直轄市の中で最大の面積を誇る。古代の巴国の地である。南北朝時代に宋により「渝州」と命名され、12世紀南宋の光宗により「重慶」と命名された。1891年長江沿岸の港湾として対外開放され、1929年重慶市政府が成立。日中戦争で南京陥落後、重慶に逃げた蒋介石の中国国民党を、日本軍が無差別爆撃を行ったという歴史(「重慶爆撃」)もある。1895年の日清講和条約により対外開放され、外資、民族資本が投入され近代工業が興った。戦後内陸部工業化の重点都市となったが、改革開放後、内陸部から資本の撤退により衰退し、目覚ましい発展を遂げた沿岸部の都市から取り残されてしまった。1997年内陸部振興のため直轄市に指定されるなど、再生の努力がなされている。現在では発展を遂げ、その独特な景観や食などから、多くの国内観光客を集める中国最大の観光都市となっている。


5位 デリー (インド) 1634万人

インドの首都特別地域であり、同国の商業・工業・政治の中心地。12世紀、チャウハーン朝のプリトヴィーラージ3世によってこの地に最初に都市が作られ、以降断続的に各王朝の首都が置かれる。ムガル帝国滅亡後、英領インドの首都はコルカタに移されるも、イスラム、ヒンドゥーの分離を命じるベンガル分割令によってコルカタの政情が不安定化したことにより、1911年、英国はデリーに再び遷都。この際、デリー南部にニューデリーが建設され、連邦の首都機能が集約された。これにより旧来のデリーはオールドデリーと呼ばれるようになった。現在も首都機能はニューデリー地区にあり、かつて日本でもインドの首都を「ニューデリー」と呼ぶ習わしがあったが、現在では都市全体の名称で呼ぶ慣例が定着している。


6位 イスタンブール (トルコ) 1511万人

*中東最大

トルコ最大の都市であり、同国の経済・文化・歴史の中心地である。アジア/ヨーロッパ2大陸にまたがる大都市であり、アジアの最も西にある都市でもある。商業や歴史の中心はヨーロッパ側に広がり、住民の3分の1がアジア側に居住している。サライブルヌの岬に紀元前660年に「ビュザンティオン」として創建され、330年に「コンスタンティノープル」として再建されて以降およそ16世紀の間、ローマ帝国(330-395)、ビザンティン(395-1204、1261-1453)、ラテン帝国(1204-1261)、オスマン帝国(1453-1922)と4つの帝国の首都であった。ローマやビザンティンの時代はキリスト教発展の要であったが、オスマン帝国成立後はイスラム教の中心地へと変わった。第一次大戦後の欧米の占領から独立したトルコ共和国成立後、オスマンの歴史を拭い去るためトルコの首都はアンカラに移された。


7位 カラチ (パキスタン) 1488万人

パキスタン南東部、アラビア海沿岸に位置する同国最大の都市であり、同国の国内総生産の大部分を占める商業・金融の中心地。8世紀にはアラブ人の間で「デバル」と呼ばれた小さな港町であったが、19世紀から始まるイギリス植民地時代に、その地政学的重要性から植民地支配の拠点として都市・港湾が整備されたことで発展した。1947年のパキスタン独立後は暫定首都となり(1955年にラホールに遷都)、インド・パンジャーブ地方のイスラム教徒が大量に流入し人口が激増した。1980年代は政情不安のアフガニスタン難民も大量に流入し、人口増加に拍車をかけた。現在はイスラム過激派によるテロ攻撃がたびたび起こるなど、治安の悪化が深刻化している。


8位 ラゴス (ナイジェリア) 1436万人

*アフリカ最大

ナイジェリアの南西端のベニン湾岸に位置する同国最大の都市。「ラゴス」とはポルトガル語で「ラグーン」を意味し、ラゴス・ラグーン内のラゴス島を中心に都市が構成される。16世紀、ラグーンの天然の良港に目をつけたポルトガルが都市を建設。1851年まで、「奴隷海岸」と呼ばれたベニン湾岸の奴隷貿易の一大中心地となった。1861年、イギリスの植民地になると英保護領の行政府が置かれ、1960年のナイジェリア独立後は首都となる。1976年に国内の南北対立を解消するため首都が国中央に位置するアブジャに移され、1991年に移転作業が完了した。1970年代、石油産業にけん引された好景気により高層ビルが多数建設されたが、ナイジェリア中から人々が流入したことで大規模なスラム街が広がり、犯罪、エイズ感染、格差、交通渋滞など、多くの深刻な都市問題が生み出された。人口は2025年に1580万人、2050年に3263万人、2100年には8800万人を超える世界最大の都市となるとする予測もある。


9位 キンシャサ (コンゴ民主) 1434万人

アフリカ中部西に位置する、コンゴ民主共和国の首都。コンゴ川下流に位置する内陸都市である。もともと「キンシャサ」と「キンタンボ」というコンゴ人の村落であったが、ベルギーに支配された19世紀末に大西洋岸まで鉄道が整備されると、内陸部の物資を船で集め、それを鉄道で海まで運ぶ交通結節点として繁栄した。1926年、「レオポルドヴィル」として植民地の主都となる。1960年のコンゴ独立の後は幾度となく内戦の舞台となるが、その間に労働者が殺到し人口が急増。1966年、文化のアフリカ化政策の一環で「キンシャサ」へ都市名を戻す。21世紀に入り、以前に比べ政情がやや安定したことを受けて、欧米や中国の鉱山会社が資源を求めてコンゴへ進出しキンシャサは栄えるが、一方で貧富の格差や非常に高い犯罪率が問題となっている。コンゴ川をはさんだ対岸にはコンゴ共和国の首都ブラザヴィルが位置するが、隣り合っている都市が両方とも国家の首都というのは世界中でここだけである。


10位 コルカタ (インド) 1405万人

インド東部に位置する西ベンガルの州都。1690年にイギリス東インド会社がこの地に商館を開設したことにはじまる。英国の帝国主義政策における主要な拠点となり、英領インド時代の前半は植民地政府の首都機能を有していた。イスラム教徒とヒンドゥー教徒の分離を命じるベンガル分割令によりコルカタが不安定化したことによって、首都はデリーに移った。さらにインド独立後、宗教対立は先鋭化し、大きな後背地であったイスラム教地域の東パキスタン(現バングラデシュ)が分離独立したことにより経済的に打撃を受ける。都市圏人口でもボンベイやデリーに抜かれるなど、インド国内での地位は低下しつつある。かつて英語圏では英語化された音で「カルカッタ」と呼ばれていた。


11位 天津 (中国) 1382万人

中国・華北海河の五大支流が合流する所に位置する、同国4つの直轄市の一つであり、華北最大の対外開放港である。隋代に北京と杭州を繋ぐ大運河が開削されると物流・軍事の一大拠点となった。1858年、アロー戦争で英仏連合軍に敗北すると天津は開港され、以後首都・北京の外港として急速な発展を遂げた。第二次大戦が終わり日本軍が撤退した後は、1947年まで米軍基地があった。1949年に直轄市に指定され、中国の工業及び貿易の拠点として現在に至っている。


12位 広州 (中国) 1368万人

北京、上海と並ぶ中国三大都市の一つであり、華南の中心都市。秦代にこの地に南海郡番禺県が設置されたのが始まりである。唐代には海上貿易を管轄する市舶司が置かれるなど、古代から中国の南海貿易の中心地たる国際都市として発展し、南漢時代は首都ともなった。海禁政策を取った明代も、広州は南海諸国の朝貢船の入港地となり、清代半ばの1757年からは広州のみが対外開放されて欧米諸国と広東貿易が行われた。阿片戦争中の1841年には一時イギリス軍に占領される。中華人民共和国成立後も香港に近い広州は中国の対外貿易港として機能し、1979年、鄧小平が対外経済開放政策を取ると、深圳・珠海の経済特区を経済圏に収める広州は経済的に急速に発展を遂げた。


13位 深圳 (中国) 1262万人

香港と接する中国の済特区であり、一大金融センター。1970年代まで宝安県という一集落に過ぎなかったが、イギリスの植民地であった香港と隣接する地理的重要性から1979年、省轄市として「深圳市」に昇格され、1980年には改革開放路線を採用した鄧小平の指示により深圳経済特区に指定されると急速に発展。わずか30年で人口は1000万人増加した。都市拡大の過程で外部より労働人口が流入して都市が形成され、広東省でありながら広東語が使われる比率が極めて低い地域である。深圳市にはスタートアップ企業が数多く存在し、「中国のシリコンバレー」とも呼ばれている。


14位 モスクワ (ロシア) 1245万人

*ヨーロッパ最大

モスクワ

モスクワは、ロシア連邦の首都。ヨーロッパで最も人口の多い都市である。1156年に砦が築かれて以降、徐々に小都市化していった。モンゴル帝国により破壊されるも、1271年、この地にモスクワ公国が成立。1480年にはイヴァン3世が、拡大したモスクワ大公国をハン国の占領下から独立させ「タタールのくびき」終わらせると、ロシア最大勢力の都に成長した。クレムリンは壮麗となり、赤の広場もこの時代に作られた。ロマノフ朝時代にサンクトペテルブルクに首都を譲るも、スラヴ文化の中心地として発展を遂げ、ソビエトによって1918年に首都機能が移転されるとソ連崩壊後も引き継がれた。


15位 サンパウロ (ブラジル) 1228万人

*南米最大

サンパウロは、ブラジル南東部に位置する南半球最大のメガシティである。イエズス会宣教師、ジョゼ・デ・アンシエタがインディオへの布教のために1554年に創設した宣教村がサンパウロの起源である。17世紀、ポルトガルの奥地探検隊、バンデイランテスの拠点となったことで発展をはじめ、19世紀にはコーヒー栽培の広まりにより街は急速に拡大。欧州から労働者が流入し、国際化が進んだ。コーヒーブーム終息後も人口増加は進み、1960年代にはリオデジャネイロを抜いてブラジル最大の都市となった。


16位 ラホール (パキスタン) 1111万人

パキスタン北東部、ラーヴィー川の岸辺に位置するインドとの国境付近に位置する同国第2の都市。1世紀ごろに建設されたと言われ、12世紀にガズニ朝の首都となった。しかし西南アジアとインドを結ぶ交通の要衝であったため、各王朝に幾度となく侵略・破壊された。16世紀以降、ムガル帝国の首都となり大きく繁栄。市内にはムガル帝国時代の多くの文化遺産が残され、城塞と庭園は世界遺産に登録されている。その後のシク王国時代や、パキスタン独立後の1955年から1959年の間も首都だった。19世紀半ばに始まったイギリス領時代に作られた、同国最大最古のパンジャブ大学やラホール博物館など文化施設も多く集まる。またインド、カシミール地方に近いことから、同国最大の軍事基地がおかれている。


17位 リマ (ペルー) 1079万人

太平洋に面するペルー共和国の首都。同国の工業生産の60%、商業の80%が集中している。先コロンブス期には既にこの地にアメリカンインディアンのグループが居住していたと考えられる。インカ時代に入ると巨大な太陽神殿や月の館が建設され、宗教的な中心地となった。1535年にインカ帝国を征服したスペイン人、フランシスコ・ピサロによって都市が築かれる。16世紀から17世紀を通じ、リマはスペインによる南米植民地支配の拠点として、またポトシ銀山の銀がヨーロッパに輸出されるための中継地点として栄えた。ペルー独立後の1872年、都市計画のために城壁が破壊された。19世紀の半ばから末にかけては、ヨーロッパや清、日本からの移民がペルーに多くやって来ている。19世紀末には一時チリに占領されるも、第二次大戦後人口の流入が続き、1940年からの40年間で人口は11倍も増加している。


18位 ジャカルタ (インドネシア) 1056万人

ジャワ島北西岸に位置するインドネシアの首都。16世紀初めまで、西ジャワのパジャジャラン王国の港町「スンダ・クラパ」として、中国との朝貢貿易や中継貿易の港町として発展した。16世紀、「勝利の町」を意味する「ジャヤカルタ」と改名。江戸時代、日本では訛って「ジャガタラ」と呼ばれ、「じゃがいも」の語源になったとする説もある。16世紀末にオランダが占領すると「バタヴィア」と改称され、オランダ東インド会社の中心都市として発展した。1811年にナポレオン戦争でオランダ東インド会社が滅ぼされたため、イギリスへバタヴィアを譲渡。イギリス東インド会社のトーマス・ラッフルズが副総督としてこの地を統治したが、1817年、再建国されたオランダ王国へ返還した。第二次大戦の日本占領時代に「ジャカルタ」と改称し、現在に続く。戦後みたびオランダに占領されるも1949年の独立後、インドネシア共和国の首都となった。経済発展著しいが、世界有数の大都市にもかかわらず現在でも交通や住宅などインフラが貧弱で、深刻な都市問題を抱えている。また湿地にあるため毎年25cmづつ市街が沈んでいるとの報告もある。その解消のため、2019年にカリマンタン島東部のバリクパパン近郊への遷都が決定し、2024年にも移転作業が開始される予定である。


19位 ソウル (韓国) 976万人

ソウル特別市は、大韓民国の首都。古くは百済の都・「漢城」。新羅時代は、現ソウルの中心を流れる漢江の北側を意味する「漢陽」と呼ばれ、高麗初期には市域の北部は「楊州」南部は「広州」、文宗の代には副都を意味する「南京」と称された。しかしいかなる表記であろうと朝鮮民族はこの地を、新羅語で「首都」という意味から派生した「ソウル」と呼んできたと言われる。盆地構造であり、外敵からの攻撃を妨ぎやすい地形であることもこの地が古くから発展した理由の一つである。高麗の李成桂が政権を奪取し、1394年に開京(現・北朝鮮の開城)からこの地に遷都すると漢陽府は「漢城府」に改称され、これ以後、漢城は500年に渡って朝鮮王朝の都となる。日本統治時代は「京城府」と呼ばれる。朝鮮戦争の際は市内が破壊されたため、釜山が臨時首都となった。休戦後、ソウルの人口は韓国の経済発展に伴って急増を続け、1975年の680万人から1990年には1061万人にまで達した。ソウル都市圏に人口が一極集中し、世界屈指の規模の大都市圏を形成している。現在、他の韓国の都市とは異なり定まった漢字名はなく、基本的にハングルのみで表記される(中華圏では旧名の「漢城」や首都を意味する「首爾」などと表記される)。


20位 東京 (日本) 974万人

東京

日本中央部に位置する同国の首都。平安時代後期に武蔵七党と総称される在地武士団が興り、12世紀には豊島郡江戸郷の名が見え、この地を本拠とする江戸氏も興った。これ以後、当地は「江戸」と呼ばれるようになる。鎌倉時代には多摩地方に北関東から鎌倉へ至る鎌倉街道が整備される。戦国時代には太田氏が台頭し、太田道灌が江戸城を築いた。太田道灌暗殺後は小田原城を拠点とする後北条氏の領国となる。後北条氏の滅亡後、豊臣政権下おいて徳川家康が関東地方へ領地替えとなり、駿府城から江戸城に入った。江戸幕府開府後は、首都は京都でありながら、幕府の所在する江戸が実質的に日本の行政の中心地となり、18世紀初頭には人口100万人を超える世界有数の大都市となった。大政奉還後、天皇が江戸城に入城し「東京」と改称。1923年、関東大震災に襲われ壊滅的被害に見舞われたため、一時大阪市の人口が東京市を上回る。第二次大戦中の1943年、東京市と東京府が廃止され、東京都が設置された。1945年3月の東京大空襲でも市街地の多くが焼け野原と化した。戦後、高度経済成長期を通じ著しい復興を遂げ、人口・経済両面において世界最大の都市圏を形成している。


21位 カイロ (エジプト) 951万人

カイロ

エジプトの首都であり、アラブ世界で最も人口の多い都市。古代以来エジプトはナイル河谷地方の「上エジプト」と、地中海に面したナイルデルタ地方の「下エジプト」とに2分されているが、その両者の接点にカイロは位置する。それまでは未開の地であったが、イスラム帝国が7世紀にエジプトを征服し、ナイル川下流河畔の交通の要衝として首府カイロを建設して以来、現在に至るまでイスラム世界の学術・文化・経済の中心都市である。一時、オスマンやナポレオンの侵攻を受け政治の中心から退くも、半独立を果たしたムハンマド・アリー朝のもとで再び政治の中心となり、都市の近代化が進められた。これらの近代化政策は財政を破綻させ、エジプトはイギリスの保護領となるが、1922年に独立を果たした際に再び首都に返り咲いた。イギリスの実効支配を脱したエジプト革命後都市は急拡大を続け、都市圏人口は1907年に95万人だったものが1988年には1200万人にまで達した。人口爆発により都市問題が深刻化したため、カイロ近郊で新首都(「ニューカイロ」)や衛星都市の建設が進められ、2021年に首都機能の移転が始まった。


22位 成都 (中国) 933万人

中国・四川省の省都であり、副省級市。豊かな成都平原の中にあり、古くから『天府の国』と呼ばれた。三国時代に蜀の都となったほか、4世紀初頭、巴氐の李特が建てた成漢の主府となった。五代十国時代には前蜀、後蜀の都となる。 唐代には水運が開け、成都では隋末の戦乱もなかったため発展した。 宋代に商業が発展し、以後西南中国の中心地となる。明代には四川布政使が駐在し、農民反乱軍の首領で大西皇帝を称した張献忠の拠点となったが、張献忠による人口の9割を超えるほどの殺戮と、清初期の抵抗運動や軍の反乱などにより、清前半までは荒廃が続いた。以後、100年をかけ湖北省・湖南省・広東省から移民を入れ復興を果たす。成都は歴史的遺産が豊富で、1982年には国家歴史文化名城に指定されている。また2000年に始まった西部大開発の拠点都市として経済も活性化。現在では都市緑地の多い、中国でもっとも住みやすい都市の一つであるとの評価もある。


23位 南京 (中国) 919万人

南京は中国の都市。古くから長江流域・華南の中心地で、「中国四大古都」の一つ。かつては三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳(六朝)、十国時代の南唐や明といった王朝や、南京国民政府の首都であった。また14世紀から15世紀にかけて、世界最大の都市であった。南京の歴史は春秋時代に呉がこの地に城を築いたことに始まる。14世紀、明の太祖・朱元璋がこの地を征服し、以後ここを根拠地として全土を統一すると、「応天府」と改められ首都となる。15世紀には、皇位を簒奪した永楽帝により首都が北京へ移されたため、「南京」と改められる。辛亥革命により中華民国が成立すると南京に臨時政府が置かれ、1927年には国民政府の正式な首都となった。日中戦争中の1937年には日本軍によって占領され、南京大虐殺が起こる。第二次大戦後の国共内戦の結果、共産党に破れた国民党は南京から撤退した。なお、現在も中華民国(台湾政府)は南京を「公式な首都」としている。


24位 ロンドン (イギリス) 908万人

ロンドン

イングランド南東部、テムズ川河畔に位置するイギリスの首都。屈指の世界都市として、商業、教育、芸術、ファッション、メディアといった広範囲にわたる分野において強い影響力を持ち、ニューヨークと並んで世界をリードする金融センターとしても知られる。2000年前、現在のシティ・オブ・ロンドン(シティ)にあたる場所にローマ帝国が作った「ロンディニウム」が都市の起源であり、わずか約1.6km四方の小さなその範域は中世以来ほぼ変わっていない。シティとそれを取り囲むインナー・ロンドン12区に加え、1963年の法改正で付け加えられたアウター・ロンドン20区をあわせた大ロンドンを一般に「ロンドン」と呼ぶ。大ロンドンの市長の他に、名誉職としてシティ・オブ・ロンドンの市長も存在する。7世紀にエセックス王国の首都、11世紀にイングランド王国の首都となる。17世紀の大火では市域のほとんどすべてが消失するも10年かけて再建。19世紀には世界最大の人口を擁する都市に成長した。しかし1970年代以降、不況による公共サービスの停止や北アイルランド共和軍(IRA)によるテロの頻発などにより人口は郊外へ流出。1939年に861万人だった人口は1980年代に680万人にまで減少した。その後、貧困層の多かった東ロンドンの開発が進み、25年間で人口は移民を中心に200万人ほど増加し、2015年には戦前の人口を超えた。2012年、同一都市としては最多となる3度目のオリンピックが開催されている。


25位 メキシコシティ (メキシコ) 884万人

*北米最大

メキシコ中部、標高2240mのメキシコ高原の盆地にある同国の首都。標高が高いため気候は比較的冷涼である。もともと一帯はテスココ湖と呼ばれる湖だったが、14世紀、アステカ人が神託に従い湖を干拓して都市「テノチティトラン」を建設。当時世界最大の都市の一つで、水に囲まれた島の中央にピラミッドが築かれた、壮麗な景観だったと伝わる。しばらくアステカ文明の中心地だったが、16世紀にスペインが入植すると都市は破壊され、その瓦礫を使い壊された街の上にスペイン風の都市が建設された。そのため20世紀に入ってから土に埋まったアステカ時代の神殿が発掘され、それらはスペイン時代の建築物と合わせメキシコシティ旧市街は世界遺産に登録された。スペイン時代も1821年のメキシコ共和国成立時も首都。その後アメリカやフランスに占領されることもあったが、その間もテスココ湖の干拓は進められ、現在では湿地帯や小さな湖が一部が残るのみである。1930年ごろから人口が急増し、世界有数の巨大な都市圏が形成されていったが、それに伴い現在に至るまで、住宅難、スラム化、大気汚染、渋滞、治安悪化などの都市問題が深刻化している。湖の上に作られた地盤の弱い土地のため、1985年のM8.1のメキシコ地震では震源から400kmほど離れているにも関わらず、7000人もの死者を出す甚大な被害に遭った。1968年に夏季オリンピック、1970年と1986年にサッカー・ワールドカップが開催されている。


26位 ニューヨーク (アメリカ) 880万人

ニューヨーク

アメリカ東海岸、ハドソン川河口に位置するアメリカ最大の都市。マンハッタン、ブロンクス、クイーンズ、ブルックリン、スタテン島の5区から構成される。1524年、フランス王フランソワ1世に依頼され北米探索を行ったイタリア人、ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノによって当地が発見されたが、彼らは居付くことなく引き返した。17世紀初頭にオランダ東インド会社が進出すると「ニューアムステルダム」と名付けられ、現在の金融街があるロウアー・マンハッタンに入植が始まった。1664年、第二次英蘭戦争で勝利したイギリスが支配を引き継ぎ、ヨーク公(後のイングランド王ジェームズ2世)にちなんで現在の名称「ニューヨーク」となると、大英帝国の重要な貿易港として発展した。英から独立後の1785年から1790年までアメリカの首都。1790年にはフィラデルフィアを抜いてアメリカ最大の都市へと成長した。1886年、アメリカ独立100周年を記念したフランス人の募金により自由の女神像が完成。20世紀以降、急激な経済成長に伴い超高層ビルが競うように建てられた。1920年代初頭、ニューヨークはロンドンを抜いて世界で最大の人口を擁する都市となり、1930年代初頭にはニューヨーク都市圏の人口が1000万人を超え、人類史上最初のメガシティとなった。しかし1970年代、金融危機により財政と治安が大幅に悪化。市は破綻寸前まで追い込まれ、人口が100万人ほど流出した。しかし、1990年代半ばからのジュリアーニ市長の改革により経済と治安は大きく改善し、現在では全米でも有数の治安の良い都市となっている。人種の多様性が著しく、市内では170近くの言語が話され、人口の36%がアメリカ国外で生まれた人である。


27位 テヘラン (イラン) 869万人

イラン高原の北西部、標高1200mほどの地点にあるイランの首都。同国最大の都市であり、イランの文化・宗教の中心である。住民の大多数はシーア派イスラム教徒であるが、イスラム教のモスクのみならず、キリスト教の教会やユダヤ教のシナゴーグも各所にみられる。紀元前6000年の住居跡が見つかっているが、9世紀ごろまで近郊のレイがこの地域の中心であり、テヘランは小村であった。1220年、レイがモンゴル帝国に襲撃され破壊されるとレイの人々がテヘランに避難し、都市としての歴史が始まった。テヘランがイランの首都になったのは1795年、ガージャール朝のアーガー・モハンマド・シャーがこの地で戴冠したときである。イランではそれまで王朝の交代とともに遷都が行われるのが常であったが、以来今日までテヘランは首都として続いている。第二次大戦中、親ナチス路線を取っていたため、イギリス、ソ連両軍の侵略を受ける。戦後、城壁を撤廃し急速に発展するが、イラン革命後のイラン・イラク戦争ではスカッドミサイルの標的となるなど、度重なる空襲で甚大な被害を受けた。対米穏健派のロウハニ大統領就任後は、街の欧米化が進んでいる。


28位 チェンナイ (インド) 865万人

インド東部、ベンガル湾に面する都市。古く1世紀頃から都市として存在していたが、1522年にポルトガルがこの地の近くに要塞を建設。イエスの使徒の一人聖トマスに因んで、「サン・トメ要塞」と名付けたが、現地住民の間ではヴィジャヤナガル王国の英雄にちなんで「チェンナイ」と呼ばれていた。17世紀、イギリス東インド会社が土地を取得し、セント・ジョージ要塞を建設。チェンナイから「マドラス」と改名した。そしてこの要塞を中心に徐々に市街地が広がった。1996年8月、都市名マドラスは植民地支配に由来する名前であるとして、かつての「チェンナイ」に改められた。自動車産業、情報技術産業、ビジネス・プロセス・アウトソーシング業が盛んであり、「南インドの玄関口」、「南アジアのデトロイト」、「インドの健康首都」、「インド銀行業の首都」などの異名を持つ。


29位 ベンガルール (インド) 852万人

インド・デカン高原の南、標高920mのマイソール高原に位置する同国第5の都市。都市として有史に現れるのは1537年、ヴィジャヤナガル王国の配下の領主、ケンペ・ガウダ1世が泥で市城を築いてからである。後にマイソール王国の一部となり、首都として繁栄した。イギリスによるインド帝国建国後、ベンガルールは南インドの植民地支配の中心地となった。高原にあるためインドの他都市と比較すると冷涼であり緑も多く、「インドの庭園都市」とも呼ばれる。インド独立後は国営の重工業、航空産業、宇宙産業、防衛産業の工場が置かれた。現在ではハイテク産業が発達し、インドのIT産業を成長させる原動力になるなど「インドのシリコンバレー」とも呼ばれる。高い教育水準を誇る大学や研究所群の所在地だが、大気汚染、交通渋滞、犯罪、スラムなどの問題も存在する。それまで都市は英名で「バンガロール(Bangalore)」と呼ばれていたが、2005年に現地カンナダ語読みの「ベンガルール(ಬೆಂಗಳೂರು/Bengaluru)」に変更された。


30位 武漢 (中国) 848万人

中国・華中地域ないし長江中流流域全域の中心都市。「百湖の市」とも呼ばれるほど市内に数多くの湖があり、水域面積は全市面積の約4分の1を占める。3800年の歴史をもつ国家歴史文化名城であり、上海、重慶とならび「長江流域3大コア都市」の1つ。長江と漢江の合流点に位置する古くからの水上交通の要衝であり、商都として発展した。1858年の天津条約により開港されると、各国の租界が作られる。日中戦争時は一時、国民党政権の臨時首都となった。共産中国成立後の1949年、政治の中心・武昌(東部)、工業の中心・漢陽(西部)、商業の中心・漢口(北部)の3市(「武漢三鎮」)が統合されて武漢市が成立。1992年に対外開放都市に指定され、翌年に武漢経済技術開発区が正式に発足すると多額の外国資本が導入された。現在も高速鉄道の(北京-香港を結ぶ南北の)京港線と、(上海-成都を結ぶ東西の)滬漢蓉線が交わる地点に位置する、中国内陸部最大の交通中枢都市である。


次ベージ : 31位から60位まで



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