ボスニア・ヘルツェゴビナの都市・人口ランキングTOP10
ボスニア・ヘルツェゴビナの都市の人口ランキングです。
ボスニア・ヘルツェゴビナ 人口 : 347万人 (2020年)
1位 サラエヴォ 34万人
by MarinaSimic
ボスニア・ヘルツェゴビナ中東部、サラエヴォ渓谷に位置する同国の首都。同国を構成する、(ボシュニャク人とクロアチア人を主体とする)ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の首都でもある。古代よりイリュリア人が住み着き、前1世紀、古代ローマがバルカン半島を支配した時代には駐屯地となった。7世紀、欧州北部より南スラブ人が移住。要塞が築かれ「ブルフ・ボスナ」と呼ばれるようになる。15世紀、オスマン帝国に支配され、ボスナ州の行政の中心として発展。住民も一部イスラム化した。オスマン時代にトルコ語で「宮殿のある平地」の意味する「サライ・オヴァス」へと改称。19世紀末、オスマン衰退の後、ハプスブルク家のオーストリア=ハンガリー帝国に支配されたが、反オーストリアの抵抗運動が沸き起こり、1914年、サラエヴォでのセルビア人(南スラブ人)青年によるオーストリア皇太子殺害事件(サラエヴォ事件)をきっかけに、第一次世界大戦へと発展した。戦後帝国は解体され、南スラブ人によって作られたユーゴスラビア王国に組み込まれる。第二次大戦ではナチスに侵攻され、終戦後成立した多民族の社会主義連邦国家ユーゴスラビアの構成国ボスニア・ヘルツェゴビナの首都となった。チトー大統領の中立主義の下、東側諸国とは一線を画した比較的な自由な社会を享受し、1984年にはサラエヴォでオリンピック冬季競技大会も開催された。しかしソ連崩壊に伴う共産党独裁の放棄とそれに伴う多党制への移行で民族間の均衡が崩れ、ユーゴスラビアの解体が始まる。1992年のユーゴからのボスニア・ヘルツェゴビナ独立を機に、(ムスリム系)ボシュニャク人と(カトリック系)クロアチア人主導のボスニア新政府からの離脱・自治を求める(正教会系)セルビア人が反発し内戦に発展。後に三つ巴の争いとなり内戦は泥沼化した。サラエヴォはユーゴ政府の支援を受けたセルビア人勢力により約4年間包囲され、市民を中心に12000人以上が殺害された。1995年、国連によるデイトン合意により停戦。復興が始まり、都市は急速な発展を遂げた。現在では多くの高層ビルが建てられ、観光客数も増加している。
2位 バニャ・ルカ 13万人
by Rade Nagraisalovic (Tonka)
ボスニア・ヘルツェゴビナ北部に位置する都市。古代ローマ時代の城塞や浴場跡が残る。12世紀、南スラブ人を中心とした「ボスニア人」から成るボスニア王国が作られ、その中心地となる。16世紀、オスマン帝国に支配され、一時ボスナ州州都となる。第一次世界大戦後はユーゴスラビア王国などに入り、第二次大戦期に工業化が進展した。1969年10月には大地震に見舞われ、大規模な被害を被る。ユーゴ紛争後はボスニア・ヘルツェゴビナを構成するセルビア人による国家・スルプスカ共和国に属している。サラエヴォに隣接するイストチノ・サラエヴォ(東サラエヴォ)がスルプスカの名目上の首都だが、政府組織はバニャ・ルカに置かれ、同国の事実上の首都となっている。
3位 トゥズラ 7万人
by Edin Arnautović
ボスニア・ヘルツェゴビナ北東部、トゥズラ盆地内に位置する都市。古くから岩塩が採れ、都市名もトルコ語の「塩(Tuz)」の意に由来する。16世紀、オスマン帝国に支配され駐屯地となった。第二次大戦後に工業都市として発展。2014年、生活苦などを理由とした、ユーゴ紛争停戦後最大規模となる暴動が発生している。
4位 ゼニツァ 7万人
ボスニア・ヘルツェゴビナ中央部に位置する都市。15世紀ごろ歴史に現れ、すぐにオスマン帝国に支配された。19世紀のオーストリア=ハンガリー帝国時代に都市化が進み、第二次大戦後、工業化が進展。ユーゴ紛争前には人口は9万人に達した。しかし内戦と貧困、政治的汚職により人口流出が続き、2014年には暴動も発生した。
5位 モスタル 6万人
by Ramirez
ボスニア・ヘルツェゴビナ南部のヘルツェゴビナ地方の中心都市。古代ローマ時代は「アンデトリウム」と呼ばれた。15世紀、オスマン帝国時代にアーチ橋が作られ、地名もトルコ語で「古い橋」の意に由来する「モスタル」と呼ばれるようになる。オーストリア=ハンガリー帝国時代より都市化が始まり、観光地としても認知されるようになった。1992年に始まるボスニア内戦では、戦闘によりアーチ橋も破壊される。停戦後、町の復興が始まり、修復されたアーチ橋とともに2005年、「モスタル旧市街の古橋の地区」として世界遺産に登録された。
6位 ビイェリナ 4万人
by Vlado Sofrenic
ボスニア・ヘルツェゴビナ北東部に位置し、同国を構成する(セルビア人中心の)スルプスカ共和国に属する町。スルプスカ国内ではバニャ・ルカに次ぐ規模の都市である。15世紀中頃に歴史に現れる。オーストリア=ハンガリー帝国時代は「ベリナ」「ビリナ」などと呼ばれていたが、帝国解体後のユーゴスラビア王国時代に、現名の「ビイェリナ」に改称された。戦後の社会主義時代に都市化が進展。1990年代のユーゴ紛争中にセルビア系難民が大量に流れ込み、現在では全市人口の8割ほどを占める。
7位 ブルチコ 3万人
by Vladanovski
ボスニア・ヘルツェゴビナ北部に位置し、サヴァ川を隔ててクロアチアと接する町。「ブルチコ」の名は紀元前3000年、この地に住み着いたイリュリア人のパノニア部族の一つであるブレウチ族に由来するとされる。長らくボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人が平和的に共存していたが、ユーゴ紛争後、ブルチコが属するブルチコ行政区はその多民族性や地理的要因ゆえ所属が決められず、(ボスニア連邦にもスルプスカ共和国にも属さない)中央政府直轄区となった。区内はボスニア側とスルプスカ側に区切られていたが、その後民族融和の努力が進められ、2006年、区分けが廃止された統一した行政区へ移行した。国内最大の川港を有する、経済的にも重要な町である。
8位 ビハチ 3万人
クロアチア国境にほど近い、ボスニア・ヘルツェゴビナ北西部に位置する町。13世紀に歴史に現れ、 クロアチア王国の首都だった時期もある。16世紀末、オスマンの支配に下ると、帝国の北西の守りの要地となった。ボスニア内戦時は激戦地となり、3年にわたりセルビア人勢力に包囲された。
9位 プリイェドル 2万人
by Ljubica K-R
ボスニア・ヘルツェゴビナ北西部に位置する、スルプスカ共和国第4の都市。17世紀末にオスマン帝国の町として歴史に現れる。当時はオスマンとオーストリアの国境にあたったため、防衛のための要塞が多数築かれた。19世紀末、近隣に鉄道が敷設されたことで発展が始まる。今も町にはオスマンやオーストリア=ハンガリー帝国時代の歴史的建造物が多く残る。
10位 ドボイ 2万人
by Inga Cvijanovic
ボスニア・ヘルツェゴビナ北部に位置し、スルプスカ共和国に属する町。15世紀に歴史に現れ、オスマン帝国の北の守りの要地として要塞が築かれた。第一次世界大戦中は、オーストリア=ハンガリー帝国によるセルビア人の強制収容所が置かれた。スルプスカ共和国最大の鉄道分岐点がある、交通の要衝である。
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