イラクの都市・人口ランキングTOP10
イラクの都市の人口ランキングです。
イラク共和国 : 人口 4531万人 (2023年)
1位 バグダッド 671万人
by MohammadHuzam
メソポタミア平原のほぼ中央、ティグリス川中流の河畔に位置するイラクの首都。紀元前3000年代のシュメール人の都市国家の時代から集落の存在が確認され、ハンムラビ王時代の紀元前1800年ごろの記録には「バグダドゥ」の名で登場する。7世紀、新興のイスラム教を信奉するアラブ人たちによって占領され、762年にアッバース朝により計画都市として町が建設された。イスラム世界の学問・文化の中心地として発展を遂げ、唐の長安と並ぶ世界最大の都市となるも、13世紀のモンゴル軍の侵攻によって一時町は灰燼に帰した。その後、イルハン朝、ジャライル朝、ティムール朝、テュルク系の黒羊朝、白羊朝、サファヴィー朝、オスマン帝国などの支配に入る。1917年、英軍に占領されると1921年、「英委任統治領メソポタミア」が成立し、バグダッドはその首都となった。委任統治終了後成立のイラク王国、1958年成立のイラク共和国でも首都となり現在に続くが、その後も数多くの戦争の舞台となり、2003年に始まるイラク戦争では米軍による空爆が行われた。その後連合国によって占領されていたが、2006年にイラク暫定政府が成立した後、2011年に米軍が完全撤退した。人口増加が著しく、2025年に人口806万人、2050年に1509万人、2075年に2439万人、2100年には3410万人の超巨大都市になるとの予測がある。
2位 モスル 136万人
イラク北部に位置する都市。市中央をチグリス川が流れる。川の東側は、紀元前10世紀にアッシリアの首都となった、旧約聖書にも登場する「ニネヴェ」であり、ペルシャからシリアを結ぶ交易路の要地として栄えた。ローマ帝国、ササン朝ペルシアに支配された後の8世紀、初の世襲イスラム王朝であるウマイヤ朝メソポタミアの首都に定められ、全盛期を迎えた。アッバース朝を経て9世紀ハムダーン朝、10世紀ウカイル朝でも首都。12世紀、セルジューク朝時代に十字軍がメソポタミアに到来すると、モスルは十字軍に抵抗するザンギー朝の中心地となった。13世紀、モンゴル帝国の侵略により町は破壊されるが、15世紀のオスマン帝国時代に再建された。オスマン崩壊後、イギリスとトルコがモスル領有を争ったが結局イギリス配下となり、1920年代に近郊で油田が発見されると再びモスルは栄えた。クルド人が多く住み、第二次戦後のイラク独立後にクルド人による反政府の機運が高まった。1991年の湾岸戦争後には、英米がモスル含むグルド人地域に軍事介入し、2003年のイラク戦争では米軍基地が置かれた。2014年に過激派組織ISILに支配されたが、2017年、米軍を中心とした有志連合の支援を受けたイラク政府により奪還された。
3位 バスラ 134万人
by احمد محمود خضير
イラク南東部、ペルシア湾河口からほど近い海抜0メートル地帯に位置する都市。7世紀、第2代カリフ・ウマルによって建設され、ペルシア湾最大の貿易港として栄えた。9世紀のアッバース朝時代に商業や宗教の中心として人口は30万に達し、当時原型が作られたとされる『千夜一夜物語』にも登場する。しかしアッバース朝衰退とともに町も衰え、モンゴルに攻め込まれると廃墟となった。オスマン帝国時代を経て、20世紀初頭のイギリス占領時代に港湾が整備される。第二次大戦後、近郊でズバイル油田が発見されると、原油の積出港、工業都市として発展を遂げた。その経済的重要性から、イラン・イラク戦争や湾岸戦争、2003年のイラク戦争で度々戦場となった。土壌も肥沃で、多くの農産物が採れる。
4位 キルクーク 97万人
by Levi Clancy
イラク北東部に位置する都市。古くからクルド人の多く住む地域だったが、1927年に油田が発見されるとアラブ人が多く移住。1970年にクルド人自治区成立の合意がイラク政府との間でなされたが、石油の豊富なキルクークの所属を巡り徐々に両者の関係が悪化し、紛争も発生した。1980年代のサダム・フセイン政権時代に町のアラブ化が進められ、2000年代にかけ20万から30万人のクルド人、トルクメン(トルコマン)人らが強制的にキルクークを追われたとされる。2003年のイラク戦争時、アメリカの主導によりクルド人、アラブ人、トルクメン人など多民族からなるキルクーク州議会が成立し、多くのクルド人もキルクークに戻った。2014年、過激派組織ISILによりキルクークは支配されるも、すぐさまクルド人治安部隊ペシュメルガが奪還。しかし2017年のISIL撤退を機に、再びイラク政府がキルクークと周辺の石油施設を専有した。キルクークのクルド人はクルド人自治区に属することを望んでいるが、アラブ人やトルクメン人住民が反対するなど摩擦が起こっている。
5位 アルビール 87万人
by jan kurdistani
イラク北部に位置する都市。紀元前5000年前から人々の定住があったとされ、紀元前2300年以前に作られたと伝わる、世界遺産でもあるアルビール要塞(シタデル要塞)が旧市街の中心に今も残る。前7世紀には新アッシリア帝国の宮殿が置かれたとされる。1世紀には「アルベラ」の名で、アッシリア人国家・アディアベネ王国の王都となり、ローマ支配時代以降、キリスト教化した。7世紀以降イスラム教徒が流入し、クルド人のハダバニ族がしばしば町を支配した。13世紀のモンゴル襲撃により衰退したが、オスマン帝国時代を経た20世紀に近代化が始まると、要塞外にも市街が広がった。イラク戦争後の2006年にクルド人自治区が成立した際に、その首府となる。クルド系住民が殆どを占めるアルビールでは、宗派間対立があまりなく治安が比較的良好なため、近年外国企業の投資を集めている。
6位 ナジャフ 74万人
イラク中央部に位置する都市。8世紀、アッバース朝カリフのハールーン・アッラシードによって、イスラム教シーア派初代イマームのアリーが祀られた墓廟が建立されたことにより、シーア派の聖地となった。町は10世紀ごろから発展を始めるが、オスマン帝国に支配されていた16世紀には、水不足により町は荒廃した。18世紀、運河建設により水不足が解消されると、シーア派の高位法学者が多く住むようになり学術都市として再興。市街の城壁も再建された。しかし20世紀初め、オスマン帝国の崩壊とイギリスの支配により、町の統治者だったイスラム学者はイランのゴムに逃れた。また第二次戦後に政権を握ったスンニ派のバース党政権により、近代化の名の下に多くの歴史的建造物が破壊され、シーア派信者のナジャフへの巡礼も制限された。2003年のイラク戦争では激戦地となったが、新イラク成立後、再びシーア派聖地の座を取り戻し、町は再開された巡礼ブームに湧いた。2021年にはローマ教皇フランシスコが訪れ、イスラム教指導者と歴史的対話を行った。
7位 カルバラー 71万人
イラク中部、ユーフラテス川右岸に位置する都市。7世紀、ムハンマドの孫でシーア派の指導者であるフサインが、スンニ派(ウマイヤ朝)との戦闘で殉死した地で、以来シーア派の聖地となった。近郊のナジャフ同様水不足に悩まされていたが、18世紀にダムが完成し水利が改善すると、シーア派の法学者が移住し、イランのイスファハーンに変わりシーア派の学問中心地となった。オスマン帝国時代も半自治権を獲得し、シーア派学者が都市の支配権を握っていたが、1843年にオスマンが市内に侵攻すると、学者はナジャフに移り住み、学問の中心地としての地位を失った。スンニ派寄りのサダム・フセイン時代まで、カルバラーへのシーア派イラン人の入国が規制されていたが、新イラク政権成立後、シーア派の聖地として多くの巡礼者を集め、経済も盛り返している。
8位 スライマーニーヤ 67万人
by Diyar Muhammed
イラク北東部、クルド人自治区の東部に位置する都市。もともと「ザムワ」という名で知られていた村落で、1784年、オスマン帝国の支配に反抗していたクルド人国家である「ババン公国」の新首都として建設された町である。1922年から1924年まで、オスマン帝国崩壊後に成立した、クルド人による未承認の短命国家「クルディスタン王国」の首都だったこともある。
9位 ナーシリーヤ 55万人
by Mohamad.bagher.nasery
イラク南東部、ユーフラテス川沿いに位置する都市。前65世紀から人々が住んでいたとされる古代都市「ウル」の遺跡の近郊に位置する。都市はオスマン帝国時代の1870年、シーア派のイスラム教徒を主とするムンタフィク族によって設立され、商品を集散する河港として栄えた。周辺はイラク最大の穀倉地帯である。
10位 アマーラ 52万人
by Hussam Shagati
イラクの南東部、チグリス川とユーフラテス川の中間に位置する都市。1860年、オスマン帝国の軍事基地として町の歴史が始まる。19世紀以降、チグリス川船運の港となり、周辺では農地の開発も進んだ。イラン・イラク戦争や、2003年に始まるイラク戦争では戦地となった。銀細工や絨毯の産地で、バグダッドに鉄道が伸びる。
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