ヨーロッパの都市・人口ランキングTOP50
ヨーロッパ域内(アルバニア、アンドラ、オーストリア、ベラルーシ、ベルギー、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ブルガリア、クロアチア、チェコ、デンマーク、エストニア、フィンランド、フランス、ドイツ、ギリシャ、ハンガリー、アイスランド、アイルランド、イタリア、ラトビア、リヒテンシュタイン、リトアニア、ルクセンブルク、マルタ、モルドバ、モナコ、モンテネグロ、オランダ、北マケドニア、ノルウェー、ポーランド、ポルトガル、ルーマニア、ロシア、サンマリノ、セルビア、スロバキア、スロベニア、スペイン、スウェーデン、スイス、ウクライナ、イギリス、バチカン)の都市の人口ランキングトップ50です。
1位 モスクワ (ロシア) 1301万人
by Mos.ru
ヨーロッパ・ロシアの中央部に位置する、ロシア連邦の首都。1156年に砦が築かれて以降、徐々に都市化していった。モンゴル帝国により灰燼に帰すも、1271年、この地にモスクワ公国が成立。15世紀、イヴァン3世が、(拡大していた)モスクワ大公国をモンゴル帝国キプチャク・ハン国の占領下から独立させ、約250年続いた「タタールのくびき」を終わらせると、モスクワはロシア最大勢力の都へ成長した。クレムリンは壮麗となり、赤の広場もこの時代に作られた。ロマノフ朝時代にサンクトペテルブルクに首都を譲るも、スラヴ文化の中心地として発展を遂げる。1812年には一時ナポレオンが占領。ロシア革命後の1918年にモスクワに首都機能が移転されると、ペトログラード(現サンクトペテルブルグ)を抜いてソ連第一の人口を擁するまでになった。1991年のソ連崩壊後もロシアの首都の座を引き継ぐ。
2位 ロンドン (イギリス) 877万人
by Ilya Grigorik
イングランド南東部、テムズ川河畔に位置するイギリスの首都。ニューヨークと並ぶ一大金融センターであり、芸術、ファッション、メディア、教育など幅広い分野に強い影響力を及ぼす世界都市である。2000年前、現在の「シティ・オブ・ロンドン(シティ)」にあたる場所にローマ帝国が作った「ロンディニウム」が都市の起源であり、わずか約1.6km四方の小さなその範域は中世以来ほぼ変わっていない。シティとそれを取り囲む「インナー・ロンドン」12区に加え、1963年の法改正で付け加えられた「アウター・ロンドン」20区をあわせた計33区の「大ロンドン」が一般的に「ロンドン」と呼ばれ、緑地帯(グリーンベルト)が都市をとり囲む。大ロンドンの市長の他に、名誉職としてシティの市長も存在する。7世紀にエセックス王国の首都、11世紀にイングランド王国の首都となる。17世紀の大火で市域のほとんどが消失するも、10年をかけて再建。19世紀には世界最大の人口を擁する都市に成長した。しかし1970年代以降、不況による公共サービスの停止や北アイルランド共和軍(IRA)によるテロの頻発などにより、市民は郊外へ流出。1939年に861万人だった人口は、1980年代に680万人にまで減少した。その後閉鎖された港(ドックランズ)の再開発を中心として、貧困層の多かった東ロンドンの開発が進み、25年間で移民を中心に人口は200万人ほど急増。2015年には戦前の最高人口を超えた。2012年、同一都市として最多となる3度目のオリンピックが開催されている。
3位 サンクトペテルブルク (ロシア) 560万人
by A.Savin
ロシア北東に位置するバルト海に面する都市で、人口100万人を超える都市としては世界最北にある。フィンランドの首都ヘルシンキとエストニアの首都タリンとは、バルト海を囲んでそれぞれ約300kmほどの距離で近接している。大北方戦争でスウェーデンから獲得した沼地に、ピョートル大帝によって1703年から建造が始められた計画都市であり、「北のヴェネチア」とも呼ばれる美しい街並みが広がる。1713年から1917年まで帝政ロシアの首都。18世紀に科学アカデミーやエルミタージュ美術館が作られ、文化の中心地となった。「サンクトペテルブルク」はドイツ風の呼び名であるが、ドイツとの戦争中はロシア風に「ペトログラード」、ソビエト成立後は「レニングラード」と呼ばれ、ソ連崩壊後に現市名に戻った。ソ連時代、首都は国境から遠いモスクワに移され、現在はロシア第二の都市として栄えている。
4位 ベルリン (ドイツ) 360万人
by Kasa Fue
ドイツ北東部に位置する同国の首都。13世紀にはじめて歴史に現れ、プロイセン王国(1701-1918)やドイツ帝国(1871-1918)、ヴァイマル共和政(1919-1933)、ナチス・ドイツ(1933-1945)の首都であった。1920年に「大ベルリン」が成立し、市域は現在とほぼ同じ領域に拡大。当時は世界で3番目に大きな都市であった。第二次大戦後の東西ドイツ分裂時代は、東ベルリン領内にあったベルリンは東西に分割され、「東ベルリン」は東ドイツの首都、西ベルリンは周辺を「ベルリンの壁」(1961年完成)で囲まれた飛び地である西ドイツ領「西ベルリン」に分断された。西ドイツの首都はボンに置かれ、西ドイツ本土と西ベルリンは、空路または直通専用道路で結ばれた。1989年にベルリンの壁が崩壊し、1990年にドイツが再統一を果たすと、ベルリンは1991年に再び統一ドイツの首都としての地位を取り戻した。以降、東西に分断されていた交通網を東西で直結する工事が行われ、旧東ベルリンを中心に再開発が進行した。またボンから首都機能の移転も漸次進められ、作業は2001年に完了。地方分権の歴史が長いドイツでは、司法の中心地はカールスルーエ、金融と交通の中心地はフランクフルトなどに分かれており、EU最大の人口を擁する大都市でありながら、都市域の経済規模はパリの6分の1程度である。しかし多様な建築、現代芸術、世界で最も居住に適した都市の一つであるなど、文化面で欧州をリードしている。
5位 マドリード (スペイン) 334万人
スペインの中央、655mの高原に位置するスペインの首都。もともとはイスラム系ムーア人の要塞だったが、9世紀、後ウマイヤ朝のムハンマド1世が現在の王宮の位置に宮殿を建設。近くを流れるマンサナーレス川がアラビア語で「水の源」を意味する「アル・マジュリート」と呼ばれ、それが市名「マドリード」の語源となった。キリスト教によるレコンキスタ(国土回復運動)がおこり、11世紀にレオン王国アルフォンソ6世がマドリードを奪取。モスクは教会に建て替えられ、15世紀、イスラム教徒は追放された。16世紀のスペイン王国成立後、フェリペ1世が宮殿をマドリードに移し首都となった。ちょうど遷都した時期はスペインの黄金時代であり、新大陸からの富によってマドリードは大いに栄え、セルバンテスやベラスケスらが活躍するなど、文化の中心地ともなった。しかし19世紀にフランスの侵略を追い払った後は経済的にしばらく低迷し、20世紀に入るとスペイン内戦の舞台となる。聖イシドロ大聖堂、カサデシスネロス、プラド美術館など史跡、文化施設が多い観光都市でもある。
6位 アテネ (ギリシア) 314万人
by George E. Koronaios
バルカン半島南東部、ギリシア南部に位置する同国の首都。古代ギリシア語では「アテナイ」と呼ばれた。丘に囲まれたアテネには新石器時代以来人が住んでいたが、前8世紀にはポリスとなり、アクロポリスの丘を中心に街が形成されていた。前5世紀、ペリクレスの時代にペルシアに勝利するとアテナイは全盛期を迎え、文化の中心地として数多くの哲学者や科学者、芸術家を輩出した。しかし、ペロポネソス戦争でスパルタに敗れてから衰えを見せ始め、前4世紀、カイロネイアの戦いで敗れるとマケドニアに支配に下る。その後ローマ領、東ローマ領、フランク公国領を経て、15世紀にオスマン帝国に支配された。そのころまでにアテネは衰退し、1834年にオスマン帝国の支配から開放された際は、人口5000人ほどの小村となっていた。しかし、国王オットー1世が新生ギリシア王国の首都としてアテネを再建すると、第一次大戦ごろにはギリシアの政治経済の中心地に返り咲く。 都市名はギリシア神話の女神で城塞都市の守護女神アテナに因んだもの。女神を祀ったパルテノン神殿はじめアクロポリスの丘には古代ギリシア時代の遺跡が残り、それらは世界遺産に登録されている。またローマ、東ローマ時代の遺跡も多く残る、観光都市として有名である。
7位 キーウ (ウクライナ) 295万人
by Maksym Kozlenko
ウクライナ北部に位置する同国の首都。地名は、キーウを創建したと言われる伝説の公爵キーイの名にちなむ。”Киïв(キーウ)”はウクライナ語名で、日本では長らくロシア語名の”Киев(キエフ)”が使用されてきた。町の中央をドニエプル川が流れ、川西側の100mほどの小高い丘に旧市街、東側の低地に新市街が形成されている。6世紀ごろから発展を始めた古都で、「ロシアの都市の母」の異名を持つ。8世紀、ビザンティン帝国との交易で栄え、東スラブ系ルーシ人の中心地となった。9世紀に成立したキエフ大公国ではその首都となり、ギリシャ正教を受け入れキリスト教化していく。世界遺産の聖ソフィア大聖堂、ペチェルスカヤ大修道院は当時建てられたもので、ロシア地域最古の宗教建築の一つである。しかし12世紀、モンゴルの侵攻により衰退。14世紀にリトアニア大公国、16世紀にリトアニア・ポーランド共和国の配下に入ったが、17世紀半ばよりウクライナ・コサック(軍事共同体)による反ポーランド感情が高まり、キーウは18世紀にかけロシアの保護下に入っていった。1917年のロシア革命を契機に独立を試みたウクライナは、キーウを首都として現在のウクライナの源流となる「ウクライナ人民共和国」を打ち立てるが、1918年、ボリシェビキ政府(ソビエト)がキーウに侵攻。ドイツやポーランドの援軍を得て抵抗するも、1920年にボリシェヴィキがキーウを占領した。これによりキーウは「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」配下となったが、政府は未だキーウに残っていた独立・抵抗の機運を嫌い、1934年まで同国の首都はハルキウに置かれた。第二次大戦ではナチス・ドイツが占領。ソ連時代はモスクワ、レニングラード(現・サンクトペテルブルク)に次ぐソ連第3の都市だった。1991年、ソ連崩壊に伴い独立したウクライナの首都となる。2022年に始まるロシアによる軍事侵攻では戦災に遭っている。
8位 ローマ (イタリア) 275万人
by daryl_mitchell
イタリア中部に位置する同国の首都であり、人口も面積もイタリア最大の都市である。紀元前9世紀ごろからテベレ川河畔に北方の民族が定住。前8世紀頃、ローマを建国した伝説上の人物・ロームルスが城壁を作ったと言われる。前6世紀から前1世紀まで共和制ローマ、1世以降帝政ローマの首都となり、皇帝アウグストゥスの時代には人口100万人を擁する世界最大の都市となった。しかし3世紀以降、西ゴートや東ゴートの支配に下ると政治的重要性を失い衰退。その後ローマは教皇の所在地以上の重要性を持ち得ず、教皇がアビニョン捕囚でローマを出た14世紀には人口はわずか3万あまりにまで減少した。その後教皇が帰還しローマ教皇領の首都に復帰すると、15世紀以降ルネサンス文化の中心地の一つとなり繁栄。1861年にサヴォイア王家のもと統一イタリア王国が成立すると、1871年にはローマ教皇領も併合され、ローマはフィレンツェに代わりイタリア王国の首都となった。当時すでに人口20万人の大都市だったが、以後大きく発展を遂げる。1929年、イタリア国王とローマ教皇が和解し、古くから教皇の居住するローマ市内のバチカンが、都市国家として分離独立した。第二次大戦中に一時首都の座を退くも、戦後イタリア共和国でも首都。ヨーロッパ随一の観光都市だが、公共サービスの停滞やインフラの老朽化が深刻化している。
9位 パリ (フランス) 213万人
by Yann Caradec
フランス北部に位置する同国最大の都市であり首都。時計回りに渦巻状に20区が配されている。前3世紀ごろ、市内中心を流れるセーヌ川の中島・シテ島に作られたパリシイ族の集落がパリの発祥。「市民」を意味する”citeain”(現代英語で”citizen”)は「シテ島に住む人」という意味が由来だされ、「都市”city”」の語源ともなった。前1世紀、カエサル率いるローマに支配され「ルテティア」と呼ばれるようになり、5世紀ごろ「パリ」と改称。6世紀にフランク王国、10世紀にフランス王国の首都となるなど国の中心地となり、14世紀には人口20万人の欧州随一の大都市となった。しかし、15世紀のイギリスとの百年戦争後は荒廃し、人口も10万人程度にまで半減。その間パリ近郊のフォンテーヌブロー宮殿などが王の居城となった。16世紀のユグノー戦争でも再び荒廃したが1594年、戦争を終わらせたアンリ4世がパリに入城し、名実ともに首都の座を回復した。17世紀、「太陽王」ルイ14世が再びパリを離れて郊外のヴェルサイユに居城を移すと、パリ外での治世はフランス革命でルイ16世が処刑されるまで続いた。19世紀初頭、ナポレオン1世がパリを「新しいローマ」とすべく改めて帝都と定め、凱旋門を建設するなど都市を整備。産業革命の到来もあり経済的、文化的にパリはさらに繁栄した。19世紀中頃にはナポレオン3世が、疫病が蔓延し衛生状態の悪かったパリを、ロンドンに対抗し得る壮麗な都市に大改造するようセーヌ県知事オスマンに命じ、現在に続く美しい都市景観が完成した。1871年の普仏戦争敗戦後の2ヶ月間、世界初の労働者による自治政府「パリ・コミューン」が成立したこともある。19世紀末からは万国博覧会が複数回開かれ、それに伴いエッフェル塔や地下鉄が建設されるなど、パリは「ベル・エポック(良き時代)」を迎えた。1921年には人口も現在より多い290万人を記録している。第二次大戦中は4年ほどドイツに占領された。戦後、パリ郊外で旧植民地からの移民が激増し、治安悪化などが社会問題化しているが、現在も多くの観光客を集める世界有数の文化都市である。
10位 ウィーン (オーストリア) 200万人
by C.Stadler/Bwag
オーストリア北東部の盆地に位置する同国の首都。市内を流れるドナウ川と、バルト海とイタリアを結ぶ「琥珀の道」との交点にあたることから、古くより交通の要衝であった。もともと「ウィンドボナ」と呼ばれるケルト人の土地だったが、前1世紀にローマの軍営地となったことで街の歴史が始まる。12世紀にバーベンベルク家領オーストリアの首都となり、13世紀以降ハプスブルク家の領地となると、16世紀から19世紀初めまで同家が支配する神聖ローマ帝国の首都となった。二度に渡るトルコによる包囲などを乗り越え、ハプスブルク家の庇護の下バロック文化が開花。特に18世紀、女帝マリア・テレジアの時代に全盛期を迎え、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンらが活躍する音楽の都として繁栄した。19世紀始め、ナポレオン戦争で神聖ローマ帝国が消滅した後成立したオーストリア帝国でも首都。1814年にはナポレオン敗北後の欧州の秩序を決める「ウィーン会議」が開かれた。1848年に始まるヨーロッパ動乱の時代に即位したフランツ・ヨーゼフ1世は、17世紀より併合していたハンガリーの独立を認め、1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立。二重帝国でも首都はウィーンに置かれ、1910年に人口は現在よりも多い200万人を数えた。しかし1918年、第一次世界大戦での敗戦により帝国が消滅し、ハプスブルク家による支配が終わりを告げると国は混乱を極め、第二次大戦前にはナチス・ドイツに併合された。戦後も1955年まで米英仏ソに分割統治されるなど国際政治に振り回される苦難の歴史が続いたことから、オーストリアは憲法で国際的中立を宣言。ウィーンも国際原子力機関 (IAEA)や石油輸出国機構 (OPEC)をはじめ、多くの国際機関が集まる中立都市として知られている。かつて「ヨーロッパ文化の中心地」として栄えた旧市街は2001年に「ウィーン歴史地区」として世界遺産に登録されたが、その後の開発などにより2017年に危機遺産リストに登録されている。
11位 ワルシャワ (ポーランド) 186万人
by Emptywords
ポーランド中東部に位置する同国の首都。10世紀ごろから集落が形成され、15世紀、マゾフシェ公の居城となる。1526年、マゾフシェ公爵家断絶によりポーランド王国領に編入。1596年、ヴァーサ王朝ジグムント3世が王宮をクラクフからワルシャワに移し、当時欧州最大面積の国家となっていた「ポーランド・リトアニア共和国」の首都となった。ワルシャワは黄金時代を迎えるが、三十年戦争や大北方戦争に巻き込まれ国力が衰えた18世紀、ロシア、プロイセン、オーストリアによる三度に渡る「ポーランド分割」によりポーランドは消滅。ワルシャワはドイツ帝国プロイセン王国領となった。1807年、プロイセンを破ったナポレオンが「ポーランド公国」を独立させ、一時その首都となるが、ナポレオン失脚により1815年からロシアが支配。約1世紀を経た1918年、ロシア崩壊に伴い独立を果たし、新しく成立した「ポーランド共和国」の首都となった。第二次大戦ではナチス・ドイツが占領。市内のユダヤ人はゲットーに隔離され、多くの人々が絶滅収容所に送られた。反ナチスの抵抗運動は激しくなったが、1943年に起きた「ワルシャワ・ゲットー蜂起」ではナチスによる焦土作戦により鎮圧され、翌年の「ワルシャワ蜂起」でも市内の9割が破壊された。1945年、ソ連軍がナチスを排除した後に成立した親ソ連・共産独裁の「ポーランド人民共和国」でもワルシャワは首都となる。1955年、ワルシャワにてソ連を中心とした共産諸国の軍事同盟「ワルシャワ条約機構」が成立。ソ連崩壊後成立した民主国家「ポーランド共和国」でも首都となり、2004年のポーランドのEU加盟なども追い風となり、急速な都市の近代化が進んでいる。戦乱で破壊された旧市街は、大戦後の復興の過程で戦前の状態に完全に復元され、1980年、旧市街含む市内一帯が「ワルシャワ歴史地区」として世界遺産に登録された。
12位 ハンブルク (ドイツ) 180万人
by Concord
ドイツ北部に位置するドイツ第二の都市。国際海洋法裁判所の所在地。9世紀、カール大帝によって前哨基地ハンマブルクの城塞が築かれ、都市の基礎が築かれた。デーン人やスラブ人の襲撃に耐え12世紀、神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世から船舶航行の特許状をうけると、交易都市としての発展した。13世紀、リューベック、ブレーメンと結んだ防衛同盟が「ハンザ同盟」成立へと繋がり、自由都市の特権と自治権を維持した。16世紀にはハンブルク証券取引所を設立。1529年には宗教改革をうけ入れており、現在もプロテスタントが多い都市である。1815年にドイツ連邦に加盟。1871年のドイツ帝国成立の際はどこの州にも属さず独立を維持した。1918年の帝国崩壊の際には、短期間ではあるが社会主義の「レーテ共和国」が樹立されている。現在も「自由ハンザ都市」として自由都市の気風を残す。ちなみに「ハンバーグ」の語源はハンブルクの労働者の食事として流行っていたタルタルステーキから由来するものである。
13位 ブカレスト (ルーマニア) 171万人
by seisdeagosto
ルーマニア南東部、ドナウ川支流ドゥムボビツァ川沿いに位置する同国の首都。「ブカレスト」はドイツ語発祥の英語読みで、ルーマニア語では「ブクレシュチ」と発する。15万年前より人々の定住が確認されているが、14世紀にハンガリーから独立して成立した、ヴラフ人による「ワラキア公国」の町として、15世紀に有史に現れる。17世紀にはオスマン帝国配下のワラキア自治公国の首都となり、オスマンやロシア、ヨーロッパとの交易で栄えた。19世紀、ワラキア公国とモルドバ公国が統合して成立した「ルーマニア公国」の首都となり、その後オスマンから独立した「ルーマニア王国」でも首都となった。「東欧の小パリ」とも称される美しい都市が整えられたが、戦後、共産ルーマニア成立後に大統領に就任したチャウシェスクは、北朝鮮の平壌をモデルに、ブカレストを無機質で合理的な計画都市に作り変え、多くの歴史的建築物を破壊した。1989年のルーマニア革命により民主化が達成された後も、貧困や疫病の蔓延など社会主義時代の負の遺産が重くのしかかっていたが、多国籍企業の進出などとともに、21世紀以降近代化が進んでいる。
14位 ブダペスト (ハンガリー) 168万人
by Jorge Franganillo
ハンガリー中北部に位置する同国の首都。19世紀、ドナウ川を境に西の「ブダ」と東の「ペスト」が合併して「ブダペスト」が誕生した。ブダの北にあたる旧市街「オーブダ」は、古代ローマ・パンノニア属州の首都・アクインクムの地。10世紀、この地にハンガリー語を話すマジャル人が入植し、13世紀のモンゴル来襲後、オーブダの南に位置する「ブダ」の丘にハンガリー王の王宮が築かれた。14世紀にハンガリー初の大学が、15世紀にはコルヴィナ文庫が置かれるなどルネサンス文化が花開くが、16世紀にオスマンに支配されイスラム化も進んだ。ドナウ川東の「ペスト」は低地が広がる氾濫原だったため発展が遅れたが、ブダ側が山がちで開発余地が少なかったことなどから、1873年に両都市が合併。新生オーストリア・ハンガリー帝国第二の都市・ブダペストが成立した。マジャル人に加えユダヤ人も増加したが、第二次大戦時は親ナチスの極右・矢十字党による迫害により、25万人ものユダヤ人が命を落としたとされる。独ソ戦の舞台ともなり市街の多くが破壊されたが、戦後の共産ハンガリー体制下で復興を達成。1987年にドナウ川と市街が世界遺産に登録された。1980年代に人口は210万人に達したが、民主化後は郊外への移住が進み、人口は減少傾向にある。
15位 バルセロナ (スペイン) 165万人
by dronepicr
スペイン北東部、地中海に面するカタルーニャ自治州の州都で、スペイン第二の都市。カルタゴの名家バルカ家の領土であり、都市名の由来ともなった。紀元前1世紀、ローマ植民市が建設され「バルチーノ」と呼ばれる。8世紀、イスラム系ウマイヤ朝によって征服され、9世紀にフランク王国に支配される。10世紀末フランク王国から独立し、11世紀に成立したカタルーニャ君主国の中心地となった。しかし15世紀にスペイン統一王朝に併合されると国の中心はマドリードへ移り、バルセロナは衰退。さらに17世紀ごろから現在まで続くカタルーニャ共和国独立運動がたびたび起こり、中心地であるバルセロナは戦乱で荒廃した。19世紀には産業革命による人口急増によって市域が拡張され、旧市街の外側を取り囲むように碁盤の目状に整然と街区が整備された新市街が広がっている。1930年代のスペイン内戦時代は反フランコ軍事政権の最後の拠点ともなった。ローマ時代の城壁やバルセロナ伯の宮殿、議事堂、ゴシック様式の市庁舎、サグラダ・ファミリア聖堂、カタルーニャ音楽堂など歴史的建築物が多く、いくつかは世界遺産に登録されている。 現在も独自の言語であるカタルーニャ語が多く話される。1992年に夏季オリンピックが開催された。
16位 ノヴォシビルスク (ロシア) 163万人
by Imdestroy
西シベリア南部、オビ川とイニャ川が合流する地点に位置するロシア第三の都市にして、シベリア地方最大の都市。1893年に鉄橋が建設されると徐々に発展。聖ニコライと当時の皇帝ニコライ2世にちなみ、当初は「ノボニコラエフスク」と呼ばれたが、共産ソ連成立後の1925年、ロシア色を消すため「新しいシベリア」を意味する「ノヴォシビルスク」に改名した。アメリカの開拓地を思わせることから「シベリアのシカゴ」とも呼ばれた。クズネツク炭田に近く、また農業地帯の中心地であったこと、交通の要地であったことから大きく発展した。ロシア科学アカデミー、大学、劇場など文化施設が多い。
17位 エカテリンブルク (ロシア) 154万人
by Vyacheslav Bukharov
ロシア中央部に位置するロシア第4の都市にして、ウラル地方の中心都市。16世紀末ごろから逃亡農民・都市貧民のコサックが征服し、この周辺で鉱工業が始まった。市名はロシアの女帝・エカチェリーナ1世にちなむ。ソ連時代の1924年から1991年は革命家・スベルドロフにちなみ「スベルドロフスク」と呼んでいた。ソ連崩壊とともに元の名前に戻る。1783年にシベリア大道、1878年にシベリア鉄道が通じ繁栄。ロシア革命後、スターリンの重工業重視の生産計画によって大工場が次々に建った。第二次世界大戦前の五か年計画では「ウラルマシ」「ウラルエレクトロチャジマシ」などの機械製作の大工場がつくられ、ソ連科学アカデミーも置かれた。街は森林公園で囲まれ「緑の都市」として知られる。国際空港に加え、鉄道7本、高速道4本が張り巡らされた交通の要衝。ロシア革命時の皇帝ニコライ2世殺害の地。16の国立大学、多数の図書館、劇場、30以上の美術館・博物館が集中している。
18位 ミュンヘン (ドイツ) 147万人
by Steffen Flor
ドイツ南部に位置するドイツ第三の都市。ミュンヘンの有史への登場は12世紀。バイエルン公ハインリヒ獅子公が、塩の交易路として都市を発展させ、その後12世紀から20世紀までウィッテルスバハ家がミュンヘンを支配した。14世紀、ルートヴィヒ4世により塩の専売地位が与えられる。15世紀後半、ミュンヘン最大のゴシック建築であるミュンヘン聖母教会が完成。16世紀、2つに分かれていたバイエルン公国が統合されるとミュンヘンはその首都となり、ルネサンス芸術の中心として繁栄した。その後のバイエルン王国でも首都となる。第二次大戦で市街は大きな被害を受けるも戦前の道路網などは保たれ、戦後街は急速に発展した。1972年、ミュンヘンオリンピックが開催される。近年では世界で最も居住に適した都市としての評価が高い。
19位 ハルキウ (ウクライナ) 142万人
by Ekaterina Polischuk
ウクライナ北東部に位置するウクライナ第二の都市。” Харків(ハルキウ)”はウクライナ語名で、ロシア語名は”Харьков(ハリコフ)”。ハルキウ川、ロパン川の合流地点に中心市街地がある。1656年、ロシアの国境を守るため、ウクライナ・コサックにより作られた砦が町の始まり。18世紀から入植が盛んになり、19世紀に世界最大級のドネツ炭田(通称「ドンバス」)が開発され鉄道が通じると、工業都市として発展。ユダヤ人労働者も多く都市に流入した。ロシア帝国が崩壊しボリシェビキがウクライナを掌握した後も、キーウではその支配に抵抗し民族主義運動が高まっていたため、1934年までハルキウがウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都とされていた。第二次大戦中はナチス・ドイツに占領され、何万人もの住民が虐殺される。1975年に地下鉄が開通し、ソ連時代は同国第六の都市として重要な地位を占めた。現在もウクライナ有数の工業都市である。
20位 コペンハーゲン (デンマーク) 137万人
by Mik Hartwell
デンマーク東部・シェラン島東岸とアマゲル島北部を占める、デンマークの首都。デンマーク語では「ケーベンハウン」と発音し「商人の港」の意味を持つ。11世紀、デンマークの大司教・アブサロンが、農村地帯だった当地にバルト海におけるデンマーク防衛の要地として砦を作った。砦は破壊と再建を繰り返しながら、現在の政府機関の中枢であるクリスティアンボー城に続いている。ニシン漁などで栄え、13世紀に都市権を得る。15世紀からデンマークの首都。16世紀のデンマーク内乱(伯爵戦争)、17世紀のスウェーデンによる包囲、18世紀のペスト流行や二度の大火など数々の災難にも耐え抜いた。デンマーク最大の港を有し、コペンハーゲン都市圏(190万人)にはデンマークの人口の3分の1が集まる。2000年、隣のスウェーデン・マルメ市と橋が繋がり、道路と鉄道が開通した。
21位 ミラノ (イタリア) 137万人
イタリア第二の都市で、同国最大の都市圏人口を擁する北部の都市。紀元前600年にケルト人の町として始まり、ラテン語で「平原の真ん中」を意味する「メディオラヌム」と呼ばれていた。前3世紀、ローマ帝国の支配に下り繁栄。4世紀、コンスタンティヌス1世がミラノで発した「ミラノ勅令」によって、ローマ帝国で初めてキリスト教が公認される。4世紀、西ローマ帝国の首都となるも5世紀以降異民族の侵入に悩まされる。13世紀、都市貴族ヴィスコンティ家がミラノ公国を成立させ、その首都となる。14世紀、街の中心にミラノ大聖堂の建設が始まり(完成は19世紀)、15世紀には公位を継いだスフォルツァ家による芸術や学問の保護の下ルネッサンスの中心地となり、ダ・ヴィンチらが活躍した。しかしその後スフォルツァ家がフランス、スイス、オーストリアの傀儡となると、16世紀に公国は消滅。16世紀中頃以降スペイン、オーストリア、フランスの支配を経て19世紀、イタリア王国に統一された。第二次大戦では英米軍の激しい爆撃に遭うも戦後急速に再開発が行われ、現在は多くの大企業が本社を構えるイタリア最大の商業都市である。多くの史跡が残る観光都市でもあり、ファッション・デザインの発信地としても知られている。
22位 カザン (ロシア) 130万人
by Vitaly Ilyin
ロシア西部、カザンカ川とボルガ川の合流地点にある、ロシア連邦タタールスタン共和国の首都であり、ロシア第5の都市。諸説あるがカザンとはタタール語で「大鍋」という意味であり、地形にちなんだものと思われる。タタール文化の中心であり、水陸交通の要衝。ブルガル人が13世紀後半に建設した都市が始まりであると言われる。14世紀モスクワ大公国により破壊されるもすぐに再建。15世紀、タタール人が中心となったカザン・ハン国の首都となり商業都市として栄えた。16世紀、モスクワ大公国によって占領されると、タタール人はカザンを追われ、代わりにロシア人が入植した。その後はロシアの東方進出の拠点として急速に発展した。ロシア革命時は反政府運動の中心地。カザン・クレムリンや多くの文化遺産、教育機関が集まる。
23位 プラハ (チェコ) 130万人
by Moyan Brenn
チェコ共和国の首都。英語名は”Prague”。6世紀にスラブ人が定住し、9世紀にプラハ城が築かれる。神聖ローマ帝国の配下に入り、10世紀、プラハを拠点としたプシェミスル朝がボヘミア地方(チェコ中部・西部)を支配。プシェミスル朝は後に帝国配下のボヘミア王国へ昇格。その中心地・プラハは西欧と東欧の商人が行き交う交通路となり、国際都市として発展した。14世紀にはボヘミア王国カレル1世が神聖ローマ皇帝カール4世となったため、プラハが帝国の首都となった。カール4世は大学創立、文芸振興に力を注ぎ、「黄金のプラハ」と呼ばれほどの中欧随一の文化都市へと発展した。17世紀、プラハでの宗派対立に端を発する、欧州中を巻き込んだ三十年戦争の後、帝国の首都がウィーンに移され、プラハは衰退した。しかし18世紀以降、帝国有数の工業都市として盛り返し、帝国を支配するドイツ人に抵抗するスラブ運動の中心地となる。1918年、神聖ローマ帝国の流れを汲むオーストリア=ハンガリー帝国が解体されると、かつてのボヘミア王国を中心としたチェコは同じスラブ系のスロバキアと合併して独立。「チェコスロバキア共和国」が成立し、プラハはその首都となった。第二次大戦中はナチスドイツに支配され、約5万人のユダヤ人が殺害された。戦後の社会主義体制でも首都を維持。1968年には民主化運動「プラハの春」の舞台となるも運動は制圧された。1989年に「ビロード革命」によって共産党政権が崩壊すると、1993年、経済政策などで対立するようになったチェコ、スロバキア両国は連邦を解消。「チェコ共和国」が成立し、プラハは引き続きその首都となった。プラハは二回の大戦の被害もあまり受けず、社会主義国のため商業ビルもあまり建たなかったことから、結果として多くの歴史的建造物が残った。プラハ城や旧ユダヤ人墓地、カレル橋などが残る歴史地区は世界遺産に登録されている。
24位 ダブリン (アイルランド) 126万人
by dronepicr
アイルランド島東部に位置する、アイルランド共和国の首都。ダブリン都市圏の人口は190万人ほどである。地名は古アイルランド語で「黒い水たまり」を意味する。9世紀、ケルト系ゲール人が住んでいたこの地に、バイキングのデーン人が入植し砦を築く。12世紀、イングランドから(当時イングランドを支配していた)フランス系ノルマン朝が侵攻。1204年、イングランドのジョン王が、砦をダブリン城として拡張した。ダブリン城にはアイルランド総督府も置かれ、ダブリンはイングランドが直接実効支配したアイルランド島東岸のペイル地方の中心都市となった。アイルランド領内はカトリック教徒が多数を占めていたが、1592年、エリザベス1世がダブリンのプロテスタント(イギリス国教会)化を目的に、プロテスタント系のダブリン大学トリニティ・カレッジを設立。聖パトリック大聖堂などもプロテスタントに改められた。17世紀にイングランドのアイルランド支配は完成するが、イングランドに対するアイルランド人の抵抗により、経済成長は妨げられていた。しかし18世紀半ば、アーサー・ギネスがギネス社の醸造所を設立すると、世界有数の醸造都市として発展。ダブリンはヨーロッパで5番目の規模を誇る都市となった。しかしそれも束の間、1800年にアイルランドが英国に併合され首都の座を失うと、富裕層がロンドンに流出するなど、ダブリンは経済的に再び停滞。1922年の南部アイルランド(アイルランド自由国、現アイルランド共和国)の独立でダブリンは首都に復帰するが、一連の独立戦争でも市内は大きな被害を受けた。1993年のEU成立後、アイルランドはEU内にありながら人件費が比較的安いことなどを背景に、1995年から2000年代なかばにかけ急速な経済成長を遂げ、ダブリンでもダブリン・ドックランズやスペンサー・ドックなどで大型開発が行われた。一方で急速な拡大により、住宅供給に問題を抱えている。
25位 ニジニ・ノヴゴロド (ロシア) 122万人
by Алексей Трефилов
ロシア西部、ヴォルガ川とオカ川とが合流する地点にあるロシア第6の都市。ボルガ川最大の港を有する水陸交通の要衝。1221年にウラジーミル大公ユーリー2世が当地に要塞を築いたのが町の起源である。市名の「ノヴゴロド」は「新しい町」を意味するが、ロシア中にある同名の都市と区別するため、「下」という意味の「ニジニ」をつけた。13世紀、難攻不落のクレムリン(城砦)を有し、モンゴルによる支配からの抵抗拠点として発展。14世紀、モスクワ大公国の支配に下る。18世紀ごろから商都として繁栄し、19世紀にはロシア最大の見本市が開かれるようになった。ソ連時代から「ヴォルガ」などのブランド名で知られる自動車製造の拠点。冷戦時代は工業の拠点となり、それゆえ1990年まで外国人の立ち入りが禁止された都市であった。ソ連解体後は経済改革が積極的に推進されている。ソ連時代の1932年、文学者のマクシム・ゴーリキーの出身地であることにちなみにちなみ「ゴーリキー」と改称されるも、1990年に現名にもどる。
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