シカゴとシカゴ学派

シカゴはアメリカ中西部に位置する、アメリカ第3の人口を擁する都市。


ミシガン湖とミシシッピ川を結ぶ運河の工事が始まる19世紀前半から、アメリカ中央部の国内交通の要衝として急速に発展します。

しかし1871年のシカゴ大火で市街のほとんどが消失。市は大規模な再開発に着手します。

シカゴ大火で唯一焼け残った公共建築物であるウォーター・タワー

当時のアメリカの豊かさを反映するように、L.サリヴァンやF.L.ライトらによって、近代的な鉄骨造の高層ビルが数多く建てられ、それらは今に続く高層オフィスビルの先駆となりました。これらの商業主義的なモダニズム建築は一般にシカゴ派と呼ばれます。

シカゴ・ビルディング

ブルックス・ビルディング

フィッシャー・ビルディング

1860年には6万人だった人口も、1900年には170万人と急激に増加。一方で犯罪率の上昇や貧富の格差拡大、スラムの発生など都市問題も深刻化するなど、良くも悪くもシカゴは近代を象徴する場所となりました。

そんな折、石油王、J.D.ロックフェラーが巨財を投じて1890年に作ったシカゴ大学を中心として、「都市・シカゴ」を舞台にさまざまな学問分野で「シカゴ学派」と呼ばれる派閥が生まれます。

J.デューイ、G.H.ミードらのプラグマティズム、C.E.メリアム、H.D.ラズウェルらの行動科学的政治学、F.ナイトやJ.ヴァイナーらを引き継ぎ、戦後「自由主義」として花開くM.フリードマンやG.スティグラーらに代表される経済学など、観念的なヨーロッパの学問とは異なり、近代理性への信頼をベースとした、主知主義的で実証的な学問が花開き、それらは今もアメリカ繁栄の学知的な礎となっています。

そんな中、シカゴという街そのものを観察する都市社会学としてのシカゴ学派が誕生します。1920年代、R.E.パークとE.バージェスはシカゴを「社会学的実験室」と捉え、生態学をアナロジーとした都市生態学を提唱し、学問的ブームを作り出します。

その後、L.ワースが都市生態学を精緻化させ都市社会学を発展させますが、シカゴ学派は都市の学問にとどまらず、H.ブルーマーやE.ゴッフマンに代表されるように、エスノグラフィカルで実証主義的な研究態度を用い、社会全体を対象とする学問へと発展していきました。



参考文献:中野正大、宝月誠著『シカゴ学派の社会学』2003年、世界思想社


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